何うすれば長命出来るか 糸左近 著




国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル
「何うすれば長命出来るか
著者
糸左近 著
出版者
万書堂
出版年月日
明40.10」


を、テキストへ変換したものです。

テキストへの入力者注

原文では
、だけで
。がありません。
読みやすいように、を。に適宜変えました。
旧仮名の「い」(るに似た文字)は、いに変えました。
漢字は、基本的に当用漢字に変えましたが、うまく変換された時は、旧字体のままとしました。
読みやすいように、適宜改行を加えました。
漢詩=正々何折路傍柳、堪愛中庭一樹梅 について、ふりがな付きですが、読みを()で示しました。
トーマス・バーは、原文では「トーマス、バー」となっていますが、・としました。

表紙には「糸 左近(by sakon itto)」とあります。糸は、「いっと」と読むべきなのかもしれません。(上の画像です)

はしがき、目次は全文、本文は「トーマス・バー(Thomas Parr)の傳」だけで、前後は省略しました。


どうすれば長命できるか

糸 左近(by sakon itto)



はしがき
彼も人なり我も人なり、彼は百五十二歳まで長らへたるに、我豈に其の年まで生きられざるの理あらんや。しかして彼は完全無欠な衛生を実行したので無い。然れば我にして完全無欠な衛生を実行したら、百五十二歳はをろか、不老不死であるかも知れぬ。是れ本書を著したる所以である。
巻末なるトーマス・パーの伝は歴史専攻の文学士河野元三君が余の為に大学の図書館及び其他に於いて、色々の書物より調べて呉れられた深き情けの結果である。故にパーに就ての記録は恐らく本書程精細な物は無いであろう。これ本書の特色として窃かに誇る所否長寿を保たうといふ人は之を模範とせられたいものである。
時維明治四十年九月彼も人なり我も人なりと奮励して
著者識す

目次
緒論
人間は何歳まで生きらるるか
長生する者と思へ
厄年に注意せよ(題目だけ見て早合点する勿れ)
沈静の人となれ
夜業を廃せよ
運動すべし
飲食物の注意
清潔なる習慣
新鮮の空気
優美の思想
安心立命
九十六媼菊子
根本翁の衛生談
九十一媼こう子
トーマス・バーの傳
東京市の長寿者表

(***目次は以上***)

(中略)

トーマス・バー(Thomas Parr)の傳

トーマス・パーは西暦千四百八十三年に英國のシュリュースベリー Shrews bary. の西十三マイルなる一寒村の賤の伏屋で呱呱 ( ここ )の声を挙げ、西暦千六百三十五年に、百五十二歳を以って『嗚呼我は若死せり』と、嘆息しつつ永眠した人である。

月日は短いものとは言いながら、悠々百五十餘年の間には、國王は十たび代を換えている。五大洲を睥睨する國王にも、一貧家に生れたる匹夫にも寿命を与ふる点に於いて天は更に不公平で無い、否天は日ら助くる人を助くるので、自ら助けぬ人は王公も糸瓜もないのである。
然ればトーマス・バーがどういうやうに自らを助けたか、又何故に百五十二歳で若死したるかは読者諸君の定めし聴きたしと思わるるところであろう。

トーマス・バーの家は代々水呑百姓で余り豐かなる暮しでは無いが、数町の田圃を有し、淡き煙を上げな がらも瓜茄子、キャベツの類に舌鼓を鳴らしていた。
然るに彼が十七歳の時、国に一小戦争が起こり、彼も徴されて兵役に従う。健強なる彼は忠勇を尽すは此時なりと、弾丸雨注の間に立って奮闘したれど、惜しい哉彼の為には戦争は間も無く平和の局を結び、天晴の功を挙げる暇は無かった。

この上は喜ぶ父母の顔を見ながら、折たく柴に戦の物語をなさんものと、歓迎の旗を見るより早く、我父よ我母よと尋ぬれば、こはそも如何に、僅かなる月日の中に、両親共天国の客となっている。
パーの嘆きは一方ならず、『嗚呼天よ天よ帰られぬものと期したる我は帰って、まだまだ長らうべき父母は既に帰らぬ人となり玉へるとは』! とまだ脱がぬ軍服の袖を搾る。しかし何時まで泣いても尽きぬ涙なれば、漸く親戚知己に慰められて再び田園生活をすることになった。

かくて、彼は自ら悟って曰く『恐れ多き言葉なれど、父母は衛生の道に適わぬ節の多か ったために、斯くも短命せられたのだ。其の代り我は二百歳以上の寿命を保ち、世の模範になって見よう。就いては第一に衛生の道を盡さねばならね。衛生の道は畢竟善く働いて、善く食ひ、善く眠るの三事に籠っている。』と。

是より彼は太陽の地平線上に昇るを度として起き出で、照りはたく三伏の日も、雨風烈しき冬の日も、渺々たる原野に出でて、田を耕し畑を培ひ勉むべき時間は一刻も休まぬ。三度の食事は彼自ら調理し、極めて簡単質素なる食品を取り、決して贅沢なる滋味を貪らぬ。
日暮れて眺餐を終れば、間も無く寝床に入り、少くとも八時間、長きは十時間も鼾声を響かせている。

人あって妻を娶れと勧むれば、 『余は尚水骨である。人世二百歳、然れば、八十乃至百歳位で結婚したらば実に適当であらう」と答ふ。『然らば何が此世で最も樂しきか』と 問へば、『睡眠である。善く働いて草臥れた後に寝床に入る楽しさは、何とも斯とも言葉には盡されませぬ』と言ふ。『失敬ながら君は滋賽の食物が足らぬでは無いか』と詰れば『否々如何に滋養の食品とても、働かずして食へば徒らに糞便となるのみだ。働いて食へば、斯の如き質素な食物でも、能く同化吸收して、身體の営養を助くるものである。凡ての人も余の様を手本にしなさい』と反駁する。
斯くて彼は此行 を一日も怠ることなく、無病健全で、八十歳まで継続し、八十歳の時は元気最も強盛となり、普通人の二十四五蔵の如くである。

されば漸く人の勧めに從ひ、ゼンテーラと言える妻を迎えた。二人の間にジョンと言える一男、ジョアンと言える一女を設けたれど、ジョンは漸く十週間にして死し、ジョアンは僅か三週間で父の長命なるにも似ずピシャピシャと枯れ萎んだ。
妻のゼンテーラはこれが為か鬱々病を為し、ヒステリー如き症に罹った。パーも初めの中は非常に悲しみかつ大いに妻を労っていたが、日を経るに従い、妻への操も打忘れ、不埒にも或婦人と姦通した。『恋すてふ我が名はまだき立ちにけり』で、人知れず思い初めたるも、今は誰れ知らぬ者も無きに至り、剰へ包むに包まれぬ私生児をさへ設けた。是に於て無邪氣なり品行家なりと賞められたる名誉も、一朝にして地に堕ちた。

然れど元来心身強健なる彼は、翻然と我身の前非を悟り、時は千五百八十年即ち彼が百五歳の時に、教會の壇にスックと 立ち、『余は何を包み隠しませう、余は実に大罪を犯しました。余は情慾の奴隷となって、妻有る身にも拘らず、人の誹りも顧みず、神の咎も恐れず、人目を忍んで不義を致したること、何とも申訳が御座いませぬ。オオ大慈大悲の神よ願はくは既往の大罪を許 し玉へ』言葉の終るか終らぬ中に天を仰いでさん然と泣いた。実に尊き涙である。
此の尊き涙を流して以来は、正々何折路傍柳、堪愛中庭一樹梅(正々何ぞ折らんや路傍の柳、堪えたり愛するに中庭一樹の梅)、と旧に倍して正妻を愛し、尚運動を怠らず、専ら摂生に注意していたが、不幸なる哉、妻はパーが百十二歳の時に先立った。

是より十年の間は、同じく攝生を継続したといふに止まって、別に之といふべき事も無いが、十年目即ち彼が百二十二歳の時、又或人の勧めに従ひ、正式の婚礼を以て、ゼーンといふ後妻を娶り、パーの死ぬまで目出度く鴛鴦の睦を全うした。

斯くの如く百二十二歳で、後妻を娶る位な元氣であったから、百三十歳の頃は普通の若人と競争して、穀物を打ったる位である。故に此の豪邁なる気象、この強健なる身体、此の目出度き長寿の事が、其から其と伝って、国中誰知らぬ者も無く、伝手を求めては其長寿法を聞きに行く者も頗る多かったれど、彼は『ナニ此位な年では、誇って申上るにも足りませぬ」と、笑而不答只吹烟といふやうな風で頗る、煙草を嗜んだといふことだ。一説には煙草を吸ったかも知れねど嗜んだとは誤伝であろう云々と駁してある。

それは兎もあれ、千六百三十五年即ち彼が百五十二歳の時、アランデル卿が世にも尊き此の長寿者あるを聞き、特別なる乗物を作らせ、自ら其村に到リ、恰も玄德が孔明の草蘆を訪へるが如く、礼を厚うして『どうか此の乗物にのり、倫敦に来たらせ玉へ、恐れ多くも國王墜下が御身に逢ひたしと宣ふぞや』と、切に請はれければ、バーは嬉し涙を流し、『あな尊や、あな畏や、瓦礫と同じく唯長命したるのみで、何等の活動したる事も無き、此の草莽の臣バーを・・・・・・』後は無言の儘。

忝なき乗物に打乗り、夢にも見られぬ尊き宮殿へ上るの光栄を得たのである。バーは元來多毛の人であったから、今は霜おく髪髯の何となく神々しく、一種侵すべからざる威厳がある。

侍従に導かれてチャーレス王陛下の御前に躓けば、
陛下『汝は世にも珍しき長寿者ぞや、定めし人に優れたる攝生も守ったであらう。其の守った次第を朕が為に包まず語れよ』.
パー「さん候、卑しき身、別に之と申し上ぐべき長寿法も知り侍らず候へども、唯善く働いて善く食し善く眠って百五歳まで暮し候。然るに当時計らずも不義の魔道に陥り心中頗る煩悶致し候ひしが翻然とと前非を悔い神の御前に懺悔を致しまして以来尚一層心身が強健になりましたやうで御座いまする。若し此時に懺悔を致しませんで居りましたならば、必ずこの長寿は得られませんで御座いませうと存じまする。外に申し上る事は御座いませぬ』
陛下「汝の強き意志、汝の正しき心、汝の楽天主義、汝の懦弱ならぬ行を天が助け玉うたのぢゃ。朕は賞め遣はす。尚今後も身を大切にせよや」

パーは飲泣答ふる能はず。唯夢かとばかり有難がって退いたがさア斯うなると倫敦の上流社会は皆々争うてパーを招待し彼の年に肖からうとする。
之が為に彼は、今日は山海の珍味に厭き明日は葡萄の美酒に酔ひ斯くして十数日を送る中に斬次消化不良を来し、名医の診療も受けたが、遂に病は回復せず、千六百三十五年十一月十四日に『嗚呼我は都に上って以来、運動を廃し滋味を貪った為に若死するの不運に至った。思ふ年まで生きることの出來ぬは如何にも残念だ』 と最後の微笑を洩さないで終った。

死後ドクトル、ハービー氏は請うて解剖したるに尚立派なる身体の組織がある。氏大いに歎じて曰く『畢竟するに贅沢な倫敦生活が哀れ彼の死を早めたのだ」』と。
是に於てアランデル其他の紳士は相計って、ウェストミンスター寺の墓に葬る。ウェストミンター寺は名士に非ずんば葬らぬ所。然ればトーマス・パーも亦以て瞑目せねばならぬ。

(後略)