つくづく総合研究所 海竜風ホーム

御高祖頭巾(おこそずきん)の話

2025年2月23日更新

江戸時代中期から大正時代にかけて、冬の防寒具として婦人に愛され、「ことに明治時代,婦人の間に流行した」(世界大百科事典 )という御高祖頭巾。
「頭寒足熱」のことから始まって、防寒頭巾のことなど、あれこれ調べているうちに、御高祖頭巾に出会って、大いに興味をそそられました。特に、下の写真のような、美しい、素敵な被り姿を見ると、さらにいろいろ調べたくなりました。
いろいろ調べた結果を書いていきます。


目次

御高祖頭巾、作るのは簡単

御高祖頭巾とはそもそも何か? という問題は後回しにして、とりあえず、それらしいものを作ってみました。
正確には、やってみました。

他の目的で買ってきた、バーゲンセールのフリース生地。何か程良い大きさなので、かぶってみました。



ネットでよく見かける商品の御高祖頭巾のサイズは
108cmx200cm
のようです。
買ってきたフリースは
100cm×140cm
長さが足りないようですが、とりあえず、どのようなことになるか。

頭にかぶせて、かぶせた側の両端をクロスさせて、後ろで2,3回まわすだけで結んでみました。


(合成画像です)

何となく、立派な御高祖頭巾ではないですか。作るのは難しくなさそうですね。電車やバスでの通勤などには、無理かもしれませんが、近所へのお出かけなどに、さっと被って、暖かで、おしゃれに装えそうではないですか。

御高祖頭巾の構造

歴史的資料の画像を見ますと、構造が分かります。


新潟県立歴史博物館の企画展示「かぶりものと女のモノ語り なぜ女は顔を隠すのか?」(終了しています)の展示図録(「平成24年度春季企画展 かぶりものと女のモノ語り」より




緑水庵 ブログ 「又續 御高祖頭巾」より)
のようなものがあります。

もっと大きな生地を用意するか、縫い合わせて長くして、頭の当たる部分に裏布を当てて、紐を付けると、本当の御高祖頭巾の出来上がり、のようです。
実際には、御高祖頭巾には、サイズを含めて、いろいろなバリエーションがありそうなので、このフリースに裏布を当てて紐をつけるだけでも、御高祖頭巾の出来上がり、とも言えます。ビンボ臭いフリースではなく、もっと良い生地を使うと、お洒落な感じになるかも。

裏布というのは、頭のところに一番力がかかるので、やはり、フリース1枚だけでは頼りなく、裏布を付けて、補強した方が良いように思います。

御高祖頭巾の被り方 Ⅰ


御高祖頭巾の被り方については、次のような素晴らしい動画がありました。



ただし、ここでは、後で出てきます、新潟県立歴史博物館の図録とは違って、首の後ろに回す紐がなくて、被るだけになっています。

御高祖頭巾とは?

そもそも御高祖頭巾とは何か? 「御高祖頭巾」については、コトバンク「御高祖頭巾(読み)オコソズキン」に、いくつかの辞書の説明があります。まず、ここを読まれてから、この記事に戻って来られたら良いかと、思います。

新潟県立歴史博物館の資料 から



新潟県立歴史博物館の企画展示「かぶりものと女のモノ語り なぜ女は顔を隠すのか?」
(終了しています)の展示図録(「平成24年度春季企画展 かぶりものと女のモノ語り」

この企画の図録「かぶりものと女のモノ語り なぜ女は顔を隠すのか?」には、いろいろすばらしい写真が載っています。御高祖頭巾と関係するものを、紹介したいと思います。


御高祖頭巾と角巻

師走の定期市、御高祖頭巾に角巻姿の女性は冬の姿の風物詩でした

と、図録にはあります。まず、御高祖頭巾に角巻姿です。


今では、見かけることのない姿ですね。暖かそう。色は、褪せているのか、やや地味ですが、当時はもっと華やかな色もあったのではなかろうか、と思います。

既に上の方で紹介していますが、この御高祖頭巾を広げると、


という具合なのです。裏布の上部に紐がついているのが分かります。

御高祖頭巾を被っている人々の姿が写っているのではないか、と思われる写真があります。


これは、冬の葬送の時の写真と思われます。角巻はつけていらっしゃいませんが、いつもの普段着とは違う、やや余所行きの姿ではないかと、思われます。ですから、普段の被り物とは違う、御高祖頭巾の姿、ということになるのではないでしょうか。

御高祖頭巾の被り方 Ⅱ

図録には、被り方も載っています。直接、御高祖頭巾ではないのですが、構造的に同じ「フルシキボッチ(タンボボウシ、タンボボッチ)」と言われるものです。御高祖頭巾は、風呂敷を被ることから始まった、という説さえあります。



これには、裏布も、紐もついていて、さらに横紐までついていますが、作業の被り物なので、横紐で、しっかり固定できるようになります。横紐を無視すると、構造的には御高祖頭巾とほぼ同じです。

下の写真が、被り方です。右端が欠けていますが、お許しを。


最後の ⑨ だけは御高祖頭巾とは関係ないので無視すると、御高祖頭巾の被り方になると思います。
中央の紐は、首の後ろに回して結んでいます。この紐が、被った時に、後頭部から耳の前を通って、頭巾が前後に抜けないようにする役目があるように思われます。首の後ろに紐があるタイプのエプロンで試して見ると、すぐに分かります。

平凡社「世界大百科事典(旧版)」には、

顔側の左右に取り付けたひもを結んで着用した

とありますが、これのことだと思われます。
ブリタニカ国際大百科事典では、

頭からかぶって開いた口から顔をのぞかせ,左右を広げて耳のうしろに掛けたのち,襟や肩をおおうようにした。

となっていますが、耳が出ないように被るのが基本なので、明らかな誤りですね。耳のうしろに掛けるのは結んだ紐でしょう。

新潟県立歴史博物館の図録からは、以上です。

守貞謾稿 から

実は、上の辞書は、多くを「守貞謾稿」(喜田川守貞 著 概要についてはウィキペディアをご覧ください))に負っているのです。岩波文庫版から、少し引用して、参考にしてみたいと思います。

大明(だいみん)頭巾 宝暦元年、大坂より中村富十郎と云ふ若女形下る。 寒風を禦(ふせ)がんため紫ちりめんにて帽子を製(つく)りたり。その頃、若き女これをかむる。男にもかむる人あり、はなはだ見ぐるし。宝暦五年より、江戸男女ともに小袖・帷子・羽折に至るまで煤竹(すすだけ)色はやる、云々。
いじょう、『我衣』に所載なり。
(中略)
大明頭巾またの名袖(そで)頭巾、また御高祖(おこそ)頭巾と云ふ。 『我衣』には、宝暦中、富十郎に始むと云ふ。 またある書には、 光悦と云ふ坊主衆に始む故に光悦頭巾とも云ふとあれども、二説ともに非なり。 すでに享保の俳書『さくらかがみ』の句に、花盛りそれかあらぬか袖頭巾。
袖頭巾、昔は男女ともにこれを用ふか。古画にこの頭巾を被るかと見ゆる者多し。けだし 『我衣』にこれを冠る男子のあれども、伝写の誤りと見ゆる故に載せず。
(中略)
今世、袖頭巾は女子の専用なり。女服にこれを図す。 男子これを用ふ者稀なり。江戸にはさらに男子これを用ひざるなり。
          (岩波文庫 近世風俗志(二) より)

と、あります。

{注} 文庫版のふりがなは () に入れました。文中に出てくる『我衣(わがころも)』というのも、江戸時代後期の、加藤曳尾庵(かとう えびあん/えいびあん)という人が書いた、日記風の随筆で、概略はウィキペディア「加藤曳尾庵」をご覧ください。
「宝暦」というのは、1751年から1764年までで、明治元年が1868年ですから、その100年くらい前のことになります。また、「享保」は、1716年から1736年までで、宝暦より15~50年くらい前になります。

袖頭巾の図が、守貞謾稿にはないのですが、要するに、仮に袖を次のようなものとすると、

この袖口から顔をのぞかせるような形式、例えば、

のようなものではないかと、思われます。後ろは縫い合わせ、下は開いている、ということだと思います。


上の引用文に「袖頭巾は女子の専用なり。女服にこれを図す」とあります。楽しみに、「女服」のある(三)を読んでみると、「巻之十六 (女服)」はありましたが、着物のことが中心で、頭巾のことは載っていません。さらにめくってみると、「巻之十七 (女服) (欠)」とあります。残念ながら、この部分が伝わっていないのでした。

また、引用文にある、『我衣』に当たってみました。守貞謾稿の言及部分は、次のようになっています。

我衣 から

『我衣(わがころも)』には、御高祖頭巾のことは載っていませんが、守貞謾稿で紹介されていた部分です、

〇宝暦元年、大坂より中村富十郎と云若女形下る、寒風を防がんため、紫ちりめんにて帽子を製たり、時の若き女是をかぶりたり、男もかぶるもの有
其時の人、是を大明頭巾と云、甚だ見ぐるしきものなり、
          (中央公論社 燕石十種 第一巻 より)

とあって、図もあります。

御高祖頭巾にぐっと近づいてきましたね。上に描いた袖頭巾のようであり、筒頭巾の一種のようにも見えます。暖かそうです。この絵の下に、「甚だ見ぐるし」と書いてあるのですが、同書にある、他の頭巾に比べて、そう見苦しいものではないような、かえって可愛らしいような気がします。私の感覚がおかしいのか、時代の違いなのか? この際、同書の他の頭巾の図を紹介しておきます。










このような頭巾の方が、よほど見苦しいような気もします。やはり、時代か。
『我衣』には、頭巾について、

町人とても、思慮ある人は不用、

などと、否定的に書かれています。どうなんでしょう、地球温暖化の時代ではないし、暖房も火鉢程度で、ほとんどないと言っていいくらいだし、頭も、耳も、首もさらけ出して、寒風の中を歩いていたとは思えないのですが。武士の痩せ我慢・・・、かな。

ウィキペディア から

ウィキペディアの頭巾の項目に、興味深い話が載っています。頭巾のいろいろな種類を挙げていって、風呂敷形の所に、

風呂敷形
四角形または長方形の布を用いて頭部と顔面を包む頭巾で、一般に女性が使用しており、御高祖頭巾(おこそずきん)、ふろしきぼっちなどと呼称された。戦時中には防空頭巾として綿を厚く入れたものが広く用いられ、戦後も防寒、防雪用頭巾として用いられ、現代では三徳頭巾などと名を変えて秋田県などに今も残されている。

上で紹介しましたフルシキボッチ(ふろしきぼっち)が出てきました。さらに、御高祖頭巾の注には、

別名「順光頭巾」、順光という僧侶が品川遊郭へ通うのに顔を隠すのに、高祖日蓮像の姿から思いついて作ったことからの命名とされる。

「御高祖」が日蓮に因むという話はありますが、どうも納得しかねるものでした。日蓮の像などに、御高祖頭巾のようなものを被ったものは、見当たりません。しかし、この注の話には、すごい説得力があります。やってはいけないことを、教祖をだしにして正当化する、という、いかにもな。しかも、別に「作った」わけでもなく、ありあわせの風呂敷、ないしそのようなものを被って、巻いた、というだけのことでしょう。

そうした目で探して見ると、あります。鎌倉時代の木像だそうです。(文化遺産オンライン より)


このようなのが、いろいろあります。頭の後ろに襟を立てて、さらにぐんと前に下ろすと、頭巾になります。「御高祖様にならったのじゃ」てな具合? やはり、御高祖頭巾の名称は、日蓮から来ているのですね。

浮世絵 から

国立国会図書館デジタルコレクション の浮世絵に、御高祖頭巾が載っています。


とか


とか。これは、首に布を巻き付けているので、さらに暖かそうですね。
上の2枚の絵は、三代目豊国で、1854年の作品と言われています。「守貞謾稿」と同じ頃です。

レンズが撮らえた150年前の日本 から

御高祖頭巾は、江戸時代中期から明治,大正にかけて,主として若い女性に用いられた、とか言われていますが、「レンズが撮らえた150年前の日本」に、その明治前後の御高祖頭巾の写真が残っています。 少し紹介したいと思います。
ただ、街角でとったのではなく、全てスタジオでとったものです。











甦る幕末 から

同じように、「甦る幕末」にも少しありました。合わせて紹介しておきます。スタジオ以外の街角や、店の中でとっているのが、身近な感じがします。


上の写真には、横からとったものもあるので、大変参考になりますね。


とにかく、御高祖頭巾には蛇の目傘なのですね。一つ前の写真のモデルさんと同じ方のように思えます。


これも、写真集では、御高祖頭巾と紹介されていますが、これは上からすっぽり被る、筒状の頭巾のようです。御高祖頭巾とは違うでしょう。袖頭巾の発展型でしょうか。顔の出し方をいろいろ変えることはできそうにありませんが、すっぽり被るだけなので、簡単。このような頭巾も流行ったのでしょうね。

日本の古写真 から

「日本の古写真」のサイトに、情報がありました。

御高祖頭巾が普及しだしたのは、享保年間(1716~1736)で絹のクレープ織だった。若い女性が身につけたのは紫、薄い紫と赤の御高祖頭巾で、中年女性の場合は、濃い青、灰色、鉄灰色だった。

情報の出所が不明なのが残念ですが、『守貞謾稿』では、「宝暦中、富十郎に始む」でした。宝暦といえば、1751年から1764年までですから、享保となれば、さらに遡ることになります。
このサイトにある写真の紹介です。蛇の目傘の代わりに富士山ですね。





流行時の冬の街角は、健康的だった?

これらの写真は、ほとんどが「着色写真」です。もちろん、当時、カラー写真なんてありませんから、白黒写真を塗って、着色したものなんです。(江戸〜明治のカラー古写真は当時こうやって作られていたより) もう、工芸品ですね。事実、欧米人相手の土産物として人気があったったようです。

それにしても、スタジオなので、特に着飾って、ポーズをとっていたのでしょうが、美しいですね。当時の冬の街角がうらやましい。また、冷えやすい首や耳、さらに顎まですっぽり覆っているので、健康にも良さそうです。

とりあえず、以上です。また何か分かったら、追加していきます。

成人式や初詣などで、着物に御高祖頭巾姿の女性が見受けられるようになると、うれしいですね。雪の日だったら、最初の写真のように、蛇の目傘など差して。ああ、楽しみだなあ。
日常でも、御高祖頭巾風のショールだと、お洒落だし、ぐんと暖かくなるでしょうね。