女人不浄説の意外な事実-四十二章経を読んで(実は男の勝手だった)

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日本に仏教が入って来て以来、「女性には、垢穢、五障があり、女性の姿のままでは、成仏できない、」というような仏教の考え方に、女性は自分を否定的に考え、男は女人禁制などと言って、男だけの殺風景な場所を作って、優越にひたってきました。

四十二章経の位置づけについては、議論はあるようですが、主に原始仏教の経典を元にしてまとめられたタイジェスト版らしいです。(「ブッダになる道 『四十二章経』を読む」 服部育郎 参考)

しかし、そこには、驚くべき記述がたくさんあるのです。(以下は、上の本の四十二章経現代語訳部分からの引用です)

情欲が起こったならば、必ずこれを遠ざけるべきである・・・どうやって?

人がブッダへの道を修めるときに、情欲を除く[心構え]は、ちょうど枯れ草に 近づく火をはらい除くようにしなくてはならない。道を修める者は情欲が起こったならば、必ずこれを遠ざけるべきである。

ブッダの道を歩む者が、情欲に惑わされることなく、外からの邪魔者に心を乱さ れることもなく、精進努力して、疑うことがなく、修行していけば、その人は必ず ブッダの道を完成することができる。

「ブッダになる道 『四十二章経』を読む」 より

有性生殖が始まって以来の、この情欲がそう簡単に遠ざけることのできるものなのでしょうか? ここに誤りの元がある、---といってもしょうがないかも知れませんが。

女性の身体とは、ただ、血とさまざまな内蔵物が詰まっているもの  →男も同じや!

そこで、提案された方法が、自己暗示です。全体としての女性の美しい魅力を、振り払うために、意識の中で、女性を肉体的構成要素に分解しよう、と言うのです。

イソップに、酸っぱい葡萄の話があります。手に入らないものへの執着を捨てるために、それが価値のないものだと、自己暗示するのです。しかし、ここでは少し違って、欲しいという気持ちが起こること自体をなくすために、そもそも葡萄ではないのだと、貶めようとするのです。それが無理なことは、歴史が証明した、というべきですが、問題は・・・

そんなたわ言を、自己暗示で、自分の意識の中に留めているなら、まだ許されるかも知れませんが、その言葉を相手に吐き、更には社会的に、その考え方を広めていくことは、失礼に留まらない、重大な誤りだった、と言えるのではないでしょうか。

よく注意して女性を見つめないようにしなくてはならない。 もしも、見つめるようなことがあったとしても、いっしょに語り合わないようにし なくてはならない。・・・女性の頭から足にいたるまで、よく観察して、次のように、心にはっきりと銘記しなくてはならない。「女性の身体とはなんであろうか、それはただ、血とさまざまな内蔵物が詰まっているものではないか」と。

天神が美女を釈尊のもとにつかわせて、[釈尊の心を乱して]その仏道の修行が確かなものかどうかを試そうとしたことがあった。そのとき、釈尊は彼女たちに言った。「あなたたちは、所詮いろいろな汚物が入った皮の袋ではないか。あなたたちは、私のところへ来て何をしようというのだ。そんな色仕掛けでもって、私の六神通のカ を無能にすることはできない。ここを去りなさい。私はあなたたちに用はありませ ん」と。

「ブッダになる道 『四十二章経』を読む」 より

「血とさまざまな内蔵物が詰まっている」のは、男も同じことです。女性の否定は即、自分自身の否定でしかありません。男人不浄説にそのままなるはずの言説です。人類不浄説というか、全動物不浄説というか。もう、話はまとまらなくなります。

しかも、情欲は、このように拙劣な自己暗示で、遠ざけることができるほど、甘いものではなかった、というのが、歴史です。

淫らな心の思いをなくす・・・といったって

「心一つで暖かくなる」という歌が、昔ありましたが・・・

ある時、激しい淫欲を抑えることができずに悩んでいる男が、思い詰めて刀の上 にまたがり、自分の男根を切り落とそうとした。そこで、釈尊はこの男に言った。 「男根を切り落とすよりは、[淫欲を起こす]自分の心を切り落とすほうがよい。心は指揮官のようなものであるから、指揮官が止まれば、その部下もすべて止むことになる。淫らな心の思いがなくならなければ、男根を切り落としても何の効果もないであろう。そんなことをすれば、死ぬことになる」と。

「ブッダになる道 『四十二章経』を読む」 より

「淫らな心の思い」を、考え方一つ=自己暗示、でなくすことなんて、絶対できないことは、ほとんどの男は、悩みながら知っています。

結局-この広い世界でブッダへの道を修める人は誰もいない

しかし、この情欲のために、生物は、人類は繁栄してきたとも言えます。苦しんできたとも、喜びを得てきたとも、言えます。修行の邪魔になるのは確かでしょうが、男と女が仲良く生きることを否定する修行が、果たして価値あるものだったのでしょうか? 

[さまざまな種類の欲望がある中で]男女の間の色欲(情欲)ほど、はなはだしいも のはない。また、色欲ほど大きいものは外にはない。この欲は大きいといっても、幸いに一つだけなので助かるが、もしそのような欲が二つあったならば、この広い世界でブッダへの道を修める人は誰もいなかったであろう。

「ブッダになる道 『四十二章経』を読む」 より

仏道をふさぐには、二つと言わずとも、一つだけで十分で、結局、道は修められては来なかった、というべきでしょう。それを、油断だ、甘い、ということは簡単なことですが、ここから派生した重大問題は・・・

「方便」という嘘だらけの体系

若い頃、「浄土三部経」を読んだことがあります。そこで愕然としたのは、浄土というのは、人々を導くための方便=嘘だと言っていることでした。経を書いた者を含めて、誰も浄土など、また阿弥陀仏など見たこともないし、見ることもないのですが、そこは承知で、信じれば救われる、というわけです。信じれば人々は、坊主の言うことを聞いて、正しい生き方に近づけるだろう、というわけです。

こういうことを、あっけらかんと書けるというのは、仏教の良さかもしれません。諸行無常なわけで、創造主など考えないで済むのです。

四十二章経の女人不浄説も、女性に惑わされる男に嘘を信じさせて、惑いから逃れさせようとするわけです。これも、方便ですね。仏教全体が方便ということかもしれません。でも、女性をおとしめて、男を惑いから逃れさせようという方便は、女性にとって、極めて残虐なものだった、と言えるのではないでしょうか。

酸っぱい葡萄、にされて泣いてきた女性

男の勝手な自己暗示に巻き込まれた、女の側はどうなるのでしょうか?

女性とは、結局、自分の母であり、妻であり、娘でもあるわけです。それを不浄だとしてきたことは、半端な謝罪では収まらない、重大な問題ではないでしょうか。日本でも、天照大神であった女性が、女三界に家なし、に追い詰められたに当たって、儒教に加えて、仏教の女人不浄説の働きは実に大きかった、というべきでしょう。

私個人としては、男たちの心配する少子化問題は、この女人不浄説を始めとする、女性への歴史的な抑圧に対する、女性からの反乱ではないか、という気がしています。

女系の(家)系図があってもいいね

家系図といえば、男系家系図が国際標準というべきですが、女人清浄説の始まりの合図として、女系の(家)系図を作って行くことは、面白そうですね。男系が続くなら、正妻だろうと、妾だろうと、何だろうと構わない、という民族的集団もあるようですが。

女系(家)系図を作ってみると、全く違う歴史、世界が見えてくるかも知れません。

**の娘、**の母(**はいずれも男の名前)と記録されて、名前すら残らなかった女性文学者たち。子供を通じてしか、その婚「家」につながれなかった嫁の、悲しさ弱さ。娘から母へのつながりで祖先というものを考えていくと、(武士的な)家を超えた、人類的な命の流れが見えてきそうですね。ゆっくり考えてみましょう。

次のようなページもありました。参考になります。

女性のための家系図はあるの?女系を辿ると母の偉大さが!

家系図ソフト というのがあるとは驚きました。が、「ご先祖の調査は結局自力でやらなければいけない!」とあります。有意義なご指摘です。いろんなことをやってらっしゃる方があるのですね。挑戦されてみてはいかがですか?

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