トーマス・パー(オールド・パー)=152歳まで生きた男の博物館

健康

1482または1483年から、1635年(152歳)まで生きた、オールド・パー。150歳まで生きるつもりの私にとっては、気になってしょうがない人物です。目標とすべき大先輩です。

トーマス・パーの肖像画
トーマス・パー(オールド・パー)
  1. 少ない資料をかき集めました
  2. ロンドンに連れて行かれて死亡するまで、元気に生きていた
  3. ウィリアム・ハーベイ(血液循環を発見)が、パーを検死
  4. ウィニントン村のトーマス・パーの家
    1. 家の回りの風景
  5. ウィニントン村からロンドンへ
  6. 年表から
  7. JOHN TAYLORによって書かれた「The Olde, Old, Very Olde Man」- トーマス・パーの伝記
    1. すべての情報の出所がここからか?
    2. 伝記を翻訳しました
    3. 作者、ジョン・テイラーはクラウドファウンダーの祖先、という説も
  8. 糸左近によるトーマス・パー伝
    1. 驚くほどの情報量ーが、出典が書かれていないのが残念
  9. トーマス・パーが頭寒足熱と関係ある、という説も
  10. まとめ記事もあります
  11. ウィキペディアのトーマス・パー
    1. 実年齢が大幅に違う、という問題
    2. 「村の乙女であるキャサリン・ミルトンとの件で懺悔をした」ことの重要性
  12. トーマス・パーの画像がいろいろあります。
  13. 論文「オールド・パー爺さんとその時代 - 近世イングランドの長寿者の物語」
  14. 子孫がいて、長生きしたという伝説も
  15. トーマス・パーの親類の子孫、という方の話
  16. 英語圏における否定的な受けとめ
  17. アメリカのバーナード・ジェンセンによる受けとめ
  18. 1841年、トーマス・パーの遺言状なるもので薬が売り出された
  19. トーマス・パーと同じ頃、169歳まで生きた、ヘンリー・ジェンキンス(Henry Jenkins)
    1. 国王の宗教に合わせて、生涯に8回、宗教を変えたヘンリー・ジェンキンス
  20. 1949年 アメリカのまとめ論文
  21. 国民伝記辞典(Dictionary of National Biography, Parr, Thomas)の トーマス・パー (新着)
  22. DNB の後継と言われる NNDB のトーマス・パー

少ない資料をかき集めました

私にとっては全く意外なことですが、彼について書かれた、まとまった本はないみたいです。ウィキペディアがせいぜいで、後は、ばらばら、あちこちに話が散らばっている、という感じです。Google検索の結果も、件数は、英語を含めて、多くありません。トーマス・パー、オールド・パー、というと大半がウイスキーがらみのものです。人物について書かれたものは、驚くほど少ないです。

彼が、見出されて、ロンドンへ連れて行かれ、十数日後に、152歳で死んでしまった頃には、世間は大騒ぎだったようですが、現在残っている資料の貧弱さには、世間のつれなささえ感じてしまいます。大騒ぎでロンドンに連れて行かれることがなければ、もっと長生きできただろう、という記述に接する度に、熱しやすくて、冷めやすい、無情な世間を感じます。

これからは、長寿が当たり前の時代です。オールド・パーを見習う必要があるし、オールド・パーが見直されるに違いありません。この博物館では、トーマス・パー(オールド・パー)についての情報を、集まり次第、アップロードすることにしました。まだ建設中で、まとまりが悪いですが、ご勘弁ください。ただし、ウイスキーについての情報は期待しないでください。

ロンドンに連れて行かれて死亡するまで、元気に生きていた

トーマス・パーが、ロンドン行きで体調を急激に壊したことは、確かなようです。では、ウィニントン村の家にいた時は、どうだったのでしょうか? いろいろな理解があるように思います。でも、少なくとも寝たきりだったのでは、ロンドンに連れて行こうという気にはなれなかっただろうと、思います。

「年取れば、介護してもらうようになるのは当たり前」のような認識が、現代社会で常識のようになっています。しかし、生き方次第では、150歳まで介護なしに自立して生きていけるのだ、さらに、社会貢献して(トーマス・パーは、直前まで働いていたということです)いけるのだ、ということは、トーマス・パーから、大いに学べることだと、思うのです。

ウィリアム・ハーベイ(血液循環を発見)が、パーを検死

ウィキペディアによりますと、「血液循環を発見したことで知られる内科医のウィリアム・ハーベイが、パーの検死を行った。その結果は、ジョン・ペッツの著書『De ortu et natura sanguinis』の中の付記に触れられている。」とのことです。

トーマス・パーを解剖中のウイリアム・ハーベイ
ウィリアム・ハーベイがトーマス・パーの遺体を解剖
(頭髪は無かったのか?)

死体の解剖や、血液循環といったことが、まだまだ十分受け入れられてはいなかった当時、ウイリアム・ハーベイは、チャールズ1世の侍医として、その保護を受けながら研究を続けていた、といわれています。そういう巡り合せで、トーマス・パーを解剖することになったのです。トーマス・パーは、当時世界最高の解剖医の検死を受けたのでした。

トーマス・パーを解剖したウィリアム・ハーベイ
生まれ故郷イングランド南部フォークストンに建てられたハーベイの銅像(右手は心臓に当て、左手には摘出した心臓を抱えていると言われる)

その検死結果は、

https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A27552.0001.001/1:5?rgn=div1;view=fulltext にありました。ラテン語です。これをGoogle翻訳を利用して、日本語に翻訳しました。(読みにくいですが、無いよりはましで、何となく分かります) ぜひ、ご覧ください。↓

そこに書かれていることを、少し紹介しますと、

細菌性肺炎の場合よりももっと多く。血が出る前に、少し黒くなったように見えました。顔に打撲傷があり、死の直前に呼吸困難のため起座呼吸をしていたと思われます。したがって、死後も脇の下と胸に熱が長く続いたのです。死体のこの兆候や他の兆候は、窒息死した人々に多く現れるものです。私たちは彼が窒息死したと判断しました、

腸は非常に良く、肉質で、丈夫で、胃も同様でした。丸く、いくつかの切込みを入れてみると、筋肉質に見えました。
昼夜を問わず、あらゆる、今までとは違う種類の食品を、見境なく、頻繁に食べるようになった時に、そのことが起きました。
サワーチーズ、すべての乳製品、ふすまパン、したがって薄めた酒、たいていはレイトサワーに満足していました。乏しい、ギリギリの食事で、貧しいが、心配することなく暮らしていたら、彼はもっと長く生きることができたでしょう。死ぬ直前、真夜中にも食事していたよりは。

まとめれば、すべての内臓はとても素晴らしく見えたので、彼が以前の生活の習慣に従って何も変えなかったならば、彼はもっと長く生きることができたでしょう。

彼は以前は、最もシンプルなもので生きていました。
しかし、ここに来てから、彼は、豊かで豪華で多様な生活と贅沢に、だんだん慣れていって、体がほとんど本来の働きを失いました。すべてが鈍くなり、ついには、胃を通り抜けるのに時間がかかるようになり、うまく消化できないようになります。さらに進んで、肝臓が圧迫され、肝臓や静脈の血流が悪くなります。
精神は凍りつき、命の泉である心臓は圧迫され、肺がうまく働かず、空気は体に巡りにくくなり、さらに続くと、ついには、体は重くなり、呼吸も困難になります。魂は、牢獄に入っているようだったことでしょう。彼は、全然満足しておらず、抜け出したかったのだと思われます。

彼の脳は無傷で、完全で、触るととてもしっかりしていました。死の少し前に、20年間ですが、彼は目は見えませんでしたが、よく聞いて、よく知覚し、そして尋ねられた質問には速やかに答えました。提供されたものに立派な態度をとりました。

 ウィリアム・ハーベイによるパーの検死結果 より

この検死結果を、パーが152歳ではなかったことの理由にする論説もあります。ですが、むしろ、152歳でも、体は(今風では体年齢が)大変若くて、健康的だったということを示しているものだと、考えるべきだと思います。

この検死は1635年。日本で解体新書が刊行された年(1774年)の140年前です。

ウィニントン村のトーマス・パーの家

焼失前のトーマス・パーの家
新聞記事 Home of oldest man ever rose again from ashes より。
一番下に、焼失したと書かれています。焼失前の写真ですね。

イギリス、シュロップシャー州のウィニントン村で暮らし、今も住居が(焼失して再建、保存されているそうです)あって、イングランドとウェールズの国境近くみたいです。今も、田園地帯のようです。1959年に焼失して、再建されたそうですが、それまで500年間続いていた、というのは、日本的には、信じられないほどのことですね。今は、別荘として使われているそうです。(Shropshire Star より)

トーマス・パーの家
Shrewsbury Museum & Art Gallery より
20世紀後半に撮影されたトーマス・パーの家

家の回りの風景

家の回りの風景を描いたイラストもあります。

トーマス・パーの家とその周辺のイラスト
Shrewsbury Museum & Art Gallery より
19世紀前半のイラスト
トーマス・パーの家とその周辺のイラスト
シュロップシャー州アルバーベリー近郊のオールドパーズコテージ 
The Book of Days(WR Chambers、c 1870)のイラスト

狭いながらも楽しい我が家、ですね。家畜小屋が見当たりませんね。見えない所にあるのでしょうか。山際の丘の上、というのは共通していますね。

日本なら「オールド・パー資料館」になっているに違いありません。多分、この違いは、オールド・パーの年齢について、イギリスでは否定的に受けとめられていることとも、関係があるのでは? と考えます。そうなら、残念です。

ウィニントン村からロンドンへ

トーマス・パーの家のあったウィニントン村。シュロップシャーの州庁所在地シュルーズベリーの近くです。

シュロップシャー (Shropshire) は、イングランド、ウェスト・ミッドランズの典礼カウンティかつ単一自治体 (Unitary Authority)。サロップ (Salop)とも呼ばれる[1]。州庁所在地はシュルーズベリー。ウェールズに接する。大麦、小麦といった穀物や、テンサイ、ジャガイモの生産がおこなわれている。ブルーチーズの一種シュロップシャー・ブルーの産地でもある。

ウィキペディア より
ウィニントン村からシュルーズベリーへの道
Googleマップより、シュロップシャーの州都シュルーズベリーの近くみたいです

ウィニントン村の衛星画像です。ウェールズとの境界近くだということも分かります。トーマス・パーの2度目の妻は、ウェールズの人だった、ということです。

ウィニントン村を上空から撮影
Googleマップより、田園地帯ですね

ウィニントン村からロンドンへ。

ウィニントンからロンドンへの経路
Googleマップより

ウィニントン村からロンドンまでは182マイル(約293km)。馬車で行ったということです。9日間くらいかかったようです。道も悪い時代で、いろいろ大騒ぎがあったようだし、トーマス・パーの健康にも配慮してですから、馬車を使っても、これくらいかかるのですね。これだけでも、年寄りには結構こたえますね。

年表から

1455~85  バラ戦争(イングランドのランカスター家とヨーク家との間で王位を巡って内乱)

1467-77  応仁の乱

1483(1482とも) トーマス・パー誕生

1492    コロンブス、大西洋をインドめざして出航

1568    織田信長、入京

1588    イングランド、イスパニア無敵艦隊を破る

1600    東インド会社設立

1600    関ヶ原合戦

1605    ガイ・フォークス国会議事堂爆破未遂事件(若い男を guy と呼ぶのはこれから来ているらしい。トーマス・パーとは、ほとんど関係ない話。すみません。)

1618-1648 30年戦争(神聖ローマ帝国を舞台にしたカトリック系とプロテスタント系の国際戦争)

1620    メイフラワー号上陸

1628    権利請願

1635    トーマス・パー死去

1635    江戸幕府「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。

1642    ピューリタン革命

1649    トーマス・パーに謁見したチャールズ1世処刑される

トーマス・パーの生涯は、牧羊のために第1次エンクロージャー(土地囲い込み)が、行われていた時代とも重なります。

JOHN TAYLORによって書かれた「The Olde, Old, Very Olde Man」- トーマス・パーの伝記

JOHN TAYLORによって書かれた「The Olde, Old, Very Olde Man」初版か?

トーマス・パーについて書かれた最初の伝記(詩)として、有名なものです。しかも、1635年という、トーマス・パーが死んだ、その年に、そのロンドンで出版されたものです。極めて資料価値の高いものです。

すべての情報の出所がここからか?

The olde, old, very olde man: or the age and long life of Thomas Par the sonne of John Parr of Winnington in the parish of Alberbury; in the country of Salopp, (or Shropshire) who was borne in the raigne of King Edward the 4th. and is now living in the Strand, being aged 152. yeares and odd monethes. His manner of life and conversation in so long a pilgrimage; his marriages, and his bringing up to London about the end of September last. 1635. Written by Iohn Taylor.
Taylor, John, 1580-1653.

https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A13482.0001.001?rgn=main;view=fulltext

ロンドンでトーマス・パーと話した人たちに取材して、それを大急ぎでまとめて、伝記詩にしたのではないかと思います。トーマス・パー死亡直後の情報に基づくものです。これは、オランダでも版を重ねたという大評判になったものらしいです。(論文「オールド・パー爺さんとその時代 - 近世イングランドの長寿者の物語」の章を参照) オランダ経由で、情報は日本にも届いたでしょうね。「頭寒足熱」が、トーマス・パーの言葉から来ている、という説も、説得力ありますね。将来、日本にもこの本があった、ということになったら、どうしましょう。

後に書いていますが、ジョン・テイラーは、まず買う人を募って、利益が出るのを見極めて、印刷・出版する、というスタイルを取っていたそうです。当時のトーマス・パー フィーバーが想像されます。

作者 John Taylor ↓ です。トーマス・パーの詩以外に、多くの詩や散文が残っているようです。この人の活躍あればこそ、トーマス・パーのことが後世に伝わったのですね。ありがとうございます。

ジョン・テイラー
John Taylor(PoetryNook.Com より)

次のようなもの(下の画像)も、同じ1635年出版であるとされています。上の本ではoldeに、下の本ではoldになっていて、絵だけでなく、テキストでも違いがあるようです。下の本の方が少しとっつきやすい気はします。

この本(下の画像)は、ジョン・テイラーの作品集となっています。また、Postscript(あとがき)として、追加の記事が載っています。ですから、オリジナルは上の画像のもので、「olde」となっているのも、そのためでしょう。この作品集が、実際にいつ出版されたのかは、分かりません。(印刷された出版年は同じ1635年と書かれています、そうだとすると、大評判のため大急ぎで、版を改めての出版となったのですね)

JOHN TAYLORによって書かれた「The Olde, Old, Very Olde Man」改版本か?
internet archive より

伝記を翻訳しました

上の画像を元にして、公開されているフルテキスト
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A13482.0001.001?rgn=main;view=fulltext
を校正し、それを日本語に訳しました。原文とセットにして、一つのページにしています。間違い沢山ありの翻訳ですが、参考にはなると思います。ぜひ、ご一読ください。↓ です。

内容は盛りだくさんで、簡単に紹介することができません。クリックして、一読ください。

ジョン・テイラー自身は、トーマス・パーの152歳という年齢について疑いをもっています。しかし、その疑いの根拠も、特に明白なものだとも思えません。ジョン・テイラーがウィニントン村に行って、詳しく取材した風でもなく、ロンドンでトーマス・パーから話をきいた人々に取材して、ジャーナリスティックにまとめ上げたのが、この伝記詩だと思われます。書かれたことが全て真実とは言えませんし、重要なことが全て書かれているとも言えません。

例えば、この伝記では、前妻との間の、早逝した2人の子供以外の子供については、何も書かれていません。が、晩年、最後の借地契約の時には、トーマス・パーは、失明していた、と書かれています。失明している夫と妻(後妻)だけで、暮らしていけたのでしょうか? 後妻との間の子供が、彼らを支えてくれていたのではないでしょうか。トーマス・パーの子供たちも長生きした、という伝説があるようですが、その方が筋が通るように思います。

賛否を考えるためにも、まずは、この最良の資料に当たっていただきたいと思います。

作者、ジョン・テイラーはクラウドファウンダーの祖先、という説も

このジョン・テイラーについては、英語Wikipediaに記事があります。(こちらは現代文なので、Google翻訳で何となく分かります) テムズ川の渡し船の仕事をしながら「水の詩人」と名乗った人らしいです。当時かなりの人気で、予め本を買ってくれる人を募って、そこそこの人数に達したら出版した、ということです。上の本も、そうして印刷されたものなのでしょうね。そうした方法から、現在のクラウドファンディングの祖先じゃないか、という見方もあるそうです。意外な展開ですね。話が広がると、面白くなりますね。

糸左近によるトーマス・パー伝

明治40年(1907年)に、糸左近 著「何うすれば長命出来るか」が出版されています。その中に、トーマス・パーの伝記があります。

国会図書館デジタルアーカイブから、トーマス・パーの伝記部分だけを、テキストに変換しました。↓ 

この伝記は、非常に詳しいもので、それだけにむしろ、一見、眉唾ものか?と思わせるほどのものです。

しかし、今から100年以上前のことですが、西洋事情について、大変旺盛に摂取していた時期であり、西洋と日本の人の出入りも多く、意外としっかりした情報に基づいていたかも知れません。

驚くほどの情報量ーが、出典が書かれていないのが残念

ウィキペディアの日本語版、英語版の情報量に比べて、驚くほどの情報量です。結構読ませます。読む価値ある、大変重要な資料だと思います。元の資料について、何も書かれていないのが、それだけに、よけい残念です。

多分、前出の JOHN TAYLORによって書かれた「The Old, Old, Very Old Man」 が、主な種本ではないかと、思っていますが、それ以上に詳しいです。伝説として伝わるものや、著者の創造も、含まれていると、思われます。

以下、一部を紹介します。

トーマス・パーは西暦千四百八十三年に英國のシュリュースベリー Shrews bary. の西十三マイルなる一寒村の賤の伏屋で呱呱 ( ここ )の声を挙げ、西暦千六百三十五年に、百五十二歳を以って『嗚呼我は若死せり』と、嘆息しつつ永眠した人である。

彼は自ら悟って曰く『恐れ多き言葉なれど、父母は衛生の道に適わぬ節の多か ったために、斯くも短命せられたのだ。其の代り我は二百歳以上の寿命を保ち、世の模範になって見よう。就いては第一に衛生の道を盡さねばならね。衛生の道は畢竟善く働いて、善く食ひ、善く眠るの三事に籠っている。』と。

是より彼は太陽の地平線上に昇るを度として起き出で、照りはたく三伏の日も、雨風烈しき冬の日も、渺々たる原野に出でて、田を耕し畑を培ひ勉むべき時間は一刻も休まぬ。三度の食事は彼自ら調理し、極めて簡単質素なる食品を取り、決して贅沢なる滋味を貪らぬ。

日暮れて眺餐を終れば、間も無く寝床に入り、少くとも八時間、長きは十時間も鼾声を響かせている。

『然らば何が此世で最も樂しきか』と 問へば、『睡眠である。善く働いて草臥れた後に寝床に入る楽しさは、何とも斯とも言葉には盡されませぬ』と言ふ。『失敬ながら君は滋賽の食物が足らぬでは無いか』と詰れば『否々如何に滋養の食品とても、働かずして食へば徒らに糞便となるのみだ。働いて食へば、斯の如き質素な食物でも、能く同化吸收して、身體の営養を助くるものである。凡ての人も余の様を手本にしなさい』と反駁する。

時は千五百八十年即ち彼が百五歳の時に、教會の壇にスックと 立ち、『余は何を包み隠しませう、余は実に大罪を犯しました。余は情慾の奴隷となって、妻有る身にも拘らず、人の誹りも顧みず、神の咎も恐れず、人目を忍んで不義を致したること、何とも申訳が御座いませぬ。オオ大慈大悲の神よ願はくは既往の大罪を許 し玉へ』言葉の終るか終らぬ中に天を仰いでさん然と泣いた。実に尊き涙である。

此の尊き涙を流して以来は、正々何折路傍柳、堪愛中庭一樹梅(正々何ぞ折らんや路傍の柳、堪えたり愛するに中庭一樹の梅)、と旧に倍して正妻を愛し、尚運動を怠らず、専ら摂生に注意していたが、不幸なる哉、妻はパーが百十二歳の時に先立った。

斯くの如く百二十二歳で、後妻を娶る位な元氣であったから、百三十歳の頃は普通の若人と競争して、穀物を打ったる位である。

千六百三十五年即ち彼が百五十二歳の時、アランデル卿が世にも尊き此の長寿者あるを聞き、特別なる乗物を作らせ、自ら其村に到リ、・・・ バーは嬉し涙を流し、『あな尊や、あな畏や、瓦礫と同じく唯長命したるのみで、何等の活動したる事も無き、此の草莽の臣バーを・・・・・・』後は無言の儘。忝なき乗物に打乗り、夢にも見られぬ尊き宮殿へ上るの光栄を得たのである。

侍従に導かれてチャーレス王陛下の御前に躓けば、陛下『汝は世にも珍しき長寿者ぞや、定めし人に優れたる攝生も守ったであらう。其の守った次第を朕が為に包まず語れよ』パー「さん候、卑しき身、別に之と申し上ぐべき長寿法も知り侍らず候へども、唯善く働いて善く食し善く眠って百五歳まで暮し候。然るに当時計らずも不義の魔道に陥り心中頗る煩悶致し候ひしが翻然とと前非を悔い神の御前に懺悔を致しまして以来尚一層心身が強健になりましたやうで御座いまする。若し此時に懺悔を致しませんで居りましたならば、必ずこの長寿は得られませんで御座いませうと存じまする。外に申し上る事は御座いませぬ』

彼は、今日は山海の珍味に厭き明日は葡萄の美酒に酔ひ斯くして十数日を送る中に斬次消化不良を来し、名医の診療も受けたが、遂に病は回復せず、千六百三十五年十一月十四日に『嗚呼我は都に上って以来、運動を廃し滋味を貪った為に若死するの不運に至った。思ふ年まで生きることの出來ぬは如何にも残念だ』 と最後の微笑を洩さないで終った。

死後ドクトル、ハービー氏は請うて解剖したるに尚立派なる身体の組織がある。氏大いに歎じて曰く『畢竟するに贅沢な倫敦生活が哀れ彼の死を早めたのだ」』と。是に於てアランデル其他の紳士は相計って、ウェストミンスター寺の墓に葬る。ウェストミンター寺は名士に非ずんば葬らぬ所。然ればトーマス・パーも亦以て瞑目せねばならぬ。

糸左近によるトーマス・パー伝

トーマス・パーが頭寒足熱と関係ある、という説も

当研究所別館の記事ですが。

トーマス・パーが、長生きの秘訣を聞かれた時の答え

Keep your head cool by temperance and your feet warm by exercise.

から、「頭寒足熱」が来ているという説が通説らしいのです。この Keep your head cool by temperance というのは、王との謁見の際にも、不倫を悔いて、懺悔し、悔い改めたことを、長生きの理由として挙げています。そのことの別な表現とも言えます。(ただし、ジョン・テイラーの伝記詩に、この文句は出てきません)

私自身、この年で、何かにつけて、昔のことを、いろいろ悔いて、懺悔します。浮わついた気持ちが吹き飛んで、体が、ぐっと絞られるような感覚です。でも、これが、良いストレスとなって、心と身体の引き締めにも役立っているような、そんな感覚も確かにあります。 Keep your head cool というのは、こういうことを言うのかも知れません。懺悔は、長生きの元、ということになるかも知れませんね。

まとめ記事もあります

おにぎりまとめ 「嘘みたいな長寿がここに…152歳まで生きたトーマス・パーの逸話がすごすぎる!!」 いろいろ逸話が集めてあります。

ウィキペディアのトーマス・パー

日本語版

英語版

英語版ウィキペディアの記事につきまして、主に私にとって読みやすいように、翻訳し、別記事にしました。英語版ウィキペディア トーマス・パー 翻訳 に置いています。

それぞれ、実際に読んでもらえると、良いのですが、ただ2点だけ、受け入れ難いところがあります。

実年齢が大幅に違う、という問題

この検視報告書はパーの実年齢が70歳未満だったことを示唆しているという。

パーに関する伝承は、彼の祖父のそれとの混同が指摘される。事実パー自身も15世紀のことに関しては特に覚えている出来事はないと述べている。

日本語版ウィキペディアより

検視報告書とパーの実年齢の問題ですが、「検視報告書は70歳未満だったことを示唆していると」、としていますが、検視報告書は、内臓が極めて健全だった、といっているだけです。ましてや、150歳くらいの人の解剖は彼らにとっても、始めてのことですから、他の検体と比較して、年齢をあれこれ言える根拠は持ち合わせていないわけです。

パーに関する伝承で、「彼の祖父のそれとの混同が指摘される。事実パー自身も15世紀のことに関しては特に覚えている出来事はないと述べている。」、としています。しかし、1483年生まれのパーが、その初期16年間の出来事について特に記憶がない、としても特別、変なことではない、と思います。今のように、マスコミがあるわけでもなし、政治的な事件が、子供の記憶に残ることは、なかなか無かった、とも考えられるのではないでしょうか。

「村の乙女であるキャサリン・ミルトンとの件で懺悔をした」ことの重要性

ところで、重要だと思うのは、トーマス・パーと国王のやり取りです。

チャールズ1世は、パーに、「マスター・パー、あなたは他の男性よりも長生きしています。その理由は何ですか?」と尋ねたと報告されています。彼は、村の乙女であるキャサリン・ミルトンとの件で懺悔をした、と答えました。国王は、「何と! 老人よ、お前は悪徳しか覚えていないのか?」と、怒りました。

英語版ウィキペディア トーマス・パー 翻訳 より

このやり取りは、一般的にはトーマス・パーを嘲笑する材料のような解釈をされています。しかし、もし怒ったとすれば、国王の勘違いで、話がかみあっていないのだと、思います。

懺悔して、心を入れ換えて生きるようになったことが、長寿を招いたとパーは言おうとしている、と私は思います。日々、「これでいいのか?」と、反省して生きることは、安逸や欲望に流れることを防ぎます。多分、このことは想像以上に、長寿と関係するように、感じます。

誤解されることを承知で書きます。例えば、自動車の運転を続ければ、事故を起こしてしまう可能性が高いような体調だとします。その時、楽だからと、乗り続けるのか。それとも、あっさり降りて、楽など求めず、体操、運動、ストレッチ、仕事、家事、ボランティア、趣味などなどで、一日中動き続け、働き続けるのか。
一年もすれば、(事故のことを含めて)とんでもない違いとなって現れると、思います。薬を、楽してもらいに行くために自動車に乗り続けるのか、それとも、自動車を降りてどんどん動き、薬がいらないような体を作るのか。

パーは、心理的なことを含めて、自動車を降りて、体を動かせ、と言っているのです。

このことは、私自身の懺悔、自戒でもあります。

トーマス・パーの画像がいろいろあります。

トーマス・パーの画像です。

Thomas Parr at Wikimedia Commons

ルーベンスによるトーマス・パーの肖像画

トーマス・パー ギャラリー

 

次のリンクでは、ウィニントン村からロンドンへの話が、絵になっています。

The old, old, very old man: or, the age and long life of Thomas Parr‎ 

馬車に乗せれられてロンドンへ行くトーマス・パー

 

トーマス・パーのお皿というのもあります。

Plate

 

ウエストミンスター寺院の記事です。

Thomas Parr

ウエストミンスターにあるトーマス・パーの墓碑

このウエストミンスター寺院の、トーマス・パーのページに

Keep your head cool by temperance and your feet warm by exercise. Rise early, go soon to bed, and if you want to grow fat [prosperous] keep your eyes open and your mouth shut.

という有名な言葉が載っています。「頭寒足熱」は、これから来ている、という説もあります。

見ているだけでも、楽しいですね。

論文「オールド・パー爺さんとその時代 - 近世イングランドの長寿者の物語」

山本信太郎さんという方が書かれた論文があります。トーマス・パーを宗教問題とからめながらの論考です。なかなか興味深いです。

http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no190/19007.pdf にあります。

いろいろな資料に当たっておられ、詳しく、興味深い話が満載です。前述のジョン・テイラーの伝記が評判を読んで、イギリスだけでなく、オランダでも、いくつも版を重ねたこととか、当時の事情についてもいろいろ触れておられます。読み物として、大いに楽しめます。ぜひ、ご一読を。

後述の、ヘンリー・ジェンキンスについても、正面からの記述があります。

子孫がいて、長生きしたという伝説も

ジョン・テイラーの伝記詩では、トーマス・パーに子供はいなかったように書かれていますが、子や孫がいて、それぞれに長生きしたという伝説はあるようです。

例えば、WP Sears Jr という方の、1949年の論文があります。(これは、また後ほど取り上げます)

これは、ジョン・テイラーの記述を中心に紹介したものですが、伝説にも言及しています。以下、伝説部分を、私が日本語に翻訳したものと、原文です。

オールド・パーは子孫を残しませんでしたが、伝承では、彼には長命の子供たちが大勢いたとされています。彼の息子は 113 歳まで、孫は 109 歳まで、ひ孫の 1 人(男)は 124 歳まで生きたと伝えられています。ひ孫と言われる人(女)が、1792 年 10 月、コークのスキッディ養老院で、103 歳で死んだと、Annual Register に書かれています。

Old Parr left no progeny, although tradition credits him with a horde of long-living children. His son is stated to have lived to 113, his grandson to 109, and one of his great-grandsons to 124. Catherine Parr, an alleged great-grand-daughter, is described in the “Annual Register” as having died in Skiddy’s Almhouse, in Cork, in October 1792, aged 103.

トーマス・パーの親類の子孫、という方の話

トーマス・パーの伝説は、親類の間でも共有されてきているようです。例えば、

Old Tom Parr: The Man Who Lived to Be 152 Years Old 
には、Victoria Parr という、トーマス・パーの(直系ではないようですが)子孫の方が、書かれた記事があります。

以下、伝説部分を、私が日本語に翻訳したものと、原文です。

オールド・パーは素晴らしい家族の伝承を生み出しました。オールドパーが素晴らしい長寿を生きたと、いう考えを、多くの人は嘲笑しますが、私は家族の伝承を信じています。

Old Parr makes for great family lore. Even though many people scoff at the idea of Old Parr’s fantastic longevity, I believe in the family lore.

ギネス世界記録で最高齢の男性が、116 歳まで生きた木村次郎右衛門という人、となっていて、トーマス・パーでないことが、残念だ、という記述もあります。ギネスの基準には当てはまらないのかもしれませんが、それ以上に、トーマス・パーの長寿について、イギリスでは否定的な意見が多いということなのでしょう。本当に残念です。

英語圏における否定的な受けとめ

ウィキペディアの章でも触れましたが、英語圏では、トーマス・パーの長寿については、否定的な人が多いようです。

例えば、STRANGE REMAINS というサイトでも、
Dissecting the true age of Old Tom Parr
には、次のような部分があります。

多くの歴史家は、トム・パーが100歳未満だったと信じています。 Roy J. Shephard は、『健康とフィットネスの図解史 – 先史時代からポストモダンまで』の中で、次のように書いています。 「幾人かの歴史家は、パーの記録が彼の祖父の記録と混同されていることを示唆している。パーの死は、70年と100年の間が、より合理的である。」

Many historians believe that Tom Parr was less than one hundred. In An Illustrated History of Health and Fitness, from Pre-History to our Post-Modern World, Roy J. Shephard writes that “Some historians suggest that Parr’s records were confused with those of his grandfather, putting Parr’s death at a more reasonable age between 70 and 100 years.”

資料としては、ジョン・テイラーの伝記と、ウイリアム・ハーベイの解剖記録しかないのですが、いろいろにぎやかな議論です。(とにかく、資料が限られているので、他の論文でも、似たような内容みたいです) でも、そこから、70歳と100歳の間、とまで結論づけるのは、どうしたものでしょうか? reasonable な態度とは思えないのですが。

アメリカのバーナード・ジェンセンによる受けとめ

バーナード・ジェンセン他著の『汚れた腸が病気をつくる – 腸をクリーンにする究極的方法』という本があります。この中にトーマス・パーについての、肯定的な記載がありました。

Bernard Jensen (原著), Sylvia Bell (原著), 月村 澄枝 (翻訳) ダイナミックセラーズ出版

該当部分だけを引用してみます。

世界で最も長生きした人
(中略)
パーがウェストミンスターに埋葬される前、彼の経歴は入念に調査された。彼が生まれた村の教区記録によれば、洗礼を受けたのが一四八三年。法律上の書類と裁判所記録には、一五六〇年に父親から小さな農場を受け継いだこと、その三年後、八〇歳で妻を迎えたことがはっきり証明されている。さらに一六〇五年、一二二歳で再婚。そればかりか一三〇歳を超えたときには、私生児を産んだ女性から子供の父親だと訴えられ、それが事実であることを自ら認めたほどだ。彼は生涯、農夫だったが、そのあまりの長寿ぶりに国土が興味を持ち、その秘密を探ろうと彼を宮殿に招いた。
(中略)
ハーベイの・・・レポートの中にパーの長寿の秘密がある・・・腸の・・・細菌叢が若者のそれと同様で、殆んど損なわれていなかったことを証明している

教会の記録があったのですね。法律上の書類というのは、ジョン・テイラーの伝記中にある借地契約書類のことだと思われます。
裁判所記録というのは、不倫を巡って、トーマス・パーが教会で懺悔することになった、と、これもジョン・テイラーの伝記中にありますが、そのことかと思われます。
「父親から小さな農場を受け継いだ」とありますが、ジョン・テイラーの伝記ではトーマス・パーは借地農となっています。
不倫の結果、子供が生まれていたのですね、やはり。前妻との間の2人の子供が早逝していますが、この不倫の子(苦労したと思いますが)の子孫が続いている可能性があります。

しかし、シュロップシャーのアーカイブ シュロップシャーの歴史を発見する(Google日本語訳)によりますと、

グレート ウォラストンの教会には、「The Old, Old, very Old Man !」と書かれたトーマス パーの肖像画を載せた真鍮のタブレットがあります。彼は 1483 年に生まれ、10 人の王と女王の治世を生き、1635 年に 152 歳でウェストミンスター寺院に埋葬されたと書かれています。

教会の記録に洗礼が記録されたのは 1538 年になってからであり、トーマス・パー (英国で最も長生きしたと言われている他の 3 人と同様) はこの日付より前に生まれたため、実際の生年月日の証拠はありません。

トーマス・パーの80歳での結婚について、・・・登録は 1564 年にアルバーベリーで始まったばかりなので、この事実の証拠はありません。

シュロップシャーのアーカイブ シュロップシャーの歴史を発見する より

とのことです。教会や役所の記録では証明できないのです。

この本も、少し眉唾の部分がありそうですね。

内臓の良好な状態は、ウィキペディアでは、それほど長寿ではなかったことの理由となっていますが、この本では長寿の理由となっています。これには、私も完全に同意します。

1841年、トーマス・パーの遺言状なるもので薬が売り出された

トーマス・パーが死んでから、200年後、ひ孫に宛てた遺言状(Old Parr’s last will & Testament)が出てきた、というストーリーで丸薬(PARR’S LIFE PILLS)が作られ、売り出されました。

上述の 論文「オールド・パー爺さんとその時代 - 近世イングランドの長寿者の物語」でも言及されています。

1841年といえば、アヘン戦争、日本は江戸時代末期、水野忠邦の頃です。

「偽薬に注意」と言いながら、偽薬を売るという、手の込んだ所もある、大変面白い文書です。↑に日本語訳と、英語原文を載せました。ご一読ください。こうやって、トーマス・パーが語り継がれてきたのかな、と感慨深いものがあります。

トーマス・パーのこととは別に、当時のイギリスの人々が苦しんでいた、多くの病気のことがうかがえて、興味深いものがあります。

トーマス・パーと同じ頃、169歳まで生きた、ヘンリー・ジェンキンス(Henry Jenkins)

トーマス・パー(1483年~1635年)に重なる時代ですが、1501年から1670年まで生きた(169歳)ヘンリー・ジェンキンスという、伝説的な人物もいたようです。イギリス、ノースヨークシャーの、スウェールのエラートン(Ellerton-on-Swale)で生まれ、他の土地で暮らし、故郷で死んだようです。

ヘンリー・ジェンキンス

ウィキペディア英語版の Henry Jenkins (longevity claimant) に書かれています。

国王の宗教に合わせて、生涯に8回、宗教を変えたヘンリー・ジェンキンス

国王の宗教に合わせて、生涯に8回、宗教を変えたことで有名らしいです。この辺のことは、前項のhttp://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no190/19007.pdf でも触れられています。この頃は、宗教改革や、異端審問などもあり、新教と旧教が勝ったり負けたりの戦争をしていた大変な時代だったのです。生き抜くためには、宗教にこだわるわけには行かなかったのでしょう。

トーマス・パーに面会したチャールズ1世も、その14年後、清教徒革命の中、クロムウェルによって、処刑されてしまうのです。そういう宗教激動の時代だったのです。

ヘンリー・ジェンキンスについては、静かに死ぬことができたためか、さらに情報は少ないです。でも、トーマス・パーも、ロンドンへ行って死ぬようなことが無ければ、ヘンリー・ジェンキンスのように、静かに生きる(死ぬ)ことができたかも知れませんね。

1949年 アメリカのまとめ論文

トーマス・パーの年齢について、肯定とか否定とかでなく、永遠の有名人として、トーマス・パーを1949年に紹介した論文です。

1949年といえば、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したのが1956年ですから、日本では戦後復興期です。その頃、のんびりとトーマス・パーを紹介したアメリカ、カナダの状況というのが、対照的で面白いかもしれません。(でも、ウクライナで人々が大変苦しんでいる時に、こんな記事を書く日本人というのも、対照的ですね。ウクライナに自由と平和を!)

さて、この論文を日本語に翻訳してみました。↓

国民伝記辞典(Dictionary of National Biography, Parr, Thomas)の トーマス・パー (新着)

国民伝記辞典は、イギリスで、1825年に第1巻が刊行され、1900年に63巻で一応終了しました。
この辞書は、「英国人の私的な記録を解明する上で計り知れないほどの貢献をした」(ブリタニカ百科事典)(ウィキペディアより)と言われる価値ある文献みたいです。

この中に、トーマス・パーの項目があるのです。トーマス・パーについての、19世紀末頃の意識も推測されます。
https://en.wikisource.org/wiki/Dictionary_of_National_Biography,_1885-1900/Parr,_Thomas
に、あります。Googleの日本語翻訳でも、かなり分かりやすいのですが、より読みやすいようにと、私なりに翻訳してみました。(後述)

これを翻訳しようと思い、よく読んでいましたら、なんと、今までに書きました、いろいろな論文などの元になっている、と言えば言いすぎかもしれませんが、重要な元資料となっているのは確実だ、ということが分かりました。

ジョン・テイラーの伝記詩は、インターネット時代に入るまでは、大変入手しにくいものだったでしょう。国民伝記辞典は、それに比べると、手に入りやすいものだったと、思われます。上述の論文を読み直しますと、ジョン・テイラーを読んでいなくて、国民伝記辞典を読んで書いたのかな、と伺えるものがあるのです。

例えば、糸左近の「どうすれば長命できるか」(1907年)についても、トーマス・パーが兵役についた、という記述があります。兵役のことはジョン・テイラーの伝記詩には、全くありません。この謎が、国民伝記辞典で解決しました。辞典には、

He is stated to have gone into service in 1500,

と書かれている部分があります。 service には、兵役(軍務)という意味があり、現代文ではその意味でもよく使われています。ところが、古い使われ方で、 go into service で、奉公するという意味がある、と辞書には書いてあります。ジョン・テイラーの伝記詩では、明らかに後者の意味で使われています。つまり、糸左近は、ジョン・テイラーの伝記詩には触れることなく、この国民伝記辞典を(間接的も含め)読んだのだろう、と推測されます。

いわば、ジョン・テイラーの伝記詩に次ぐ、オリジナルだとも言えるかもしれません。

国民伝記辞典は、↓に置いてますので、ご一読ください。

DNB の後継と言われる NNDB のトーマス・パー

前述しましたDNBを引き継いでいると言われ、現在も更新し続けているのが NNDB です。そこにも、トーマス・パーの項目がありました。

Thomas Parr, English centenarian, known as “Old Parr” という出だしで始まります。

これは、現代文で、かつ理解しにくいレトリックが使われていないので、Google翻訳で、殆んど理解できます。訪問してみてください。ただ、残念なのは、トーマス・パーの年齢について、DNBにありました、疑問を投げかける、という姿勢を変えて、はっきりと否定的になっていることです。ほとんど、ウィキペディアと同じ姿勢です。例えば、(Google翻訳ですが)

もちろん、彼が実際に 1483 年に生まれたという可能性はかなり低いです。パー自身は彼の適切な年齢を知ることができませんでした。また、彼が言ったことには、15 世紀の記憶を示すものは何もありませんでした。最も鮮やかな思い出(rather unusual as those would likely be his most vivid memories. )。パーは間違いなく年をとっていましたが、このパーの出生記録と彼の祖父の出生記録との混同 (故意か否か) が時々想定されるシナリオです。

トーマス・パーの「最も鮮やかな思い出」は rather unusual だとしています。この rather unusual というのが、正確にはどういう意味なのか、厳密には分かりませんが、辞書では、普通でない、異常な、と書かれています。大変残念なことです。

出生記録( birth record )などとありますが、既に紹介しました
シュロップシャーのアーカイブ シュロップシャーの歴史を発見する(Google日本語訳)
によりますと、トーマス・パーや、その祖父の頃には出生記録などなかったということです。上の方で少し引用していますので、出生記録問題 をクリックすれば、そこへ戻れます。

何かと、「152歳が証明できない」と言われますが、同じくらい「152歳でなかったことも証明できない」と思います。むしろ、現代の常識=平均寿命、を基準にしているだけなのです。

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