トーマス・パー(オールド・パー)博物館

健康

1482または1483年から、1635年(152歳)まで生きた、オールド・パー。150歳まで生きるつもりの私にとっては、気になってしょうがない人物です。目標とすべき大先輩です。

トーマス・パー(オールド・パー)

少ない資料をかき集めました

私にとっては全く意外なことですが、彼について書かれた、まとまった本はないみたいです。ウィキペディアがせいぜいで、後は、ばらばら、あちこちに話が散らばっている、という感じです。Google検索の結果も、件数は、英語を含めて、多くありません。トーマス・パー、オールド・パー、というと大半がウイスキーがらみのものです。人物について書かれたものは、驚くほど少ないです。

彼が、見出されて、ロンドンへ連れて行かれ、十数日後に、152歳で死んでしまった頃には、世間は大騒ぎだったようですが、現在残っている資料の貧弱さには、世間のつれなささえ感じてしまいます。大騒ぎでロンドンに連れて行かれることがなければ、もっと長生きできただろう、という記述に接する度に、熱しやすくて、冷めやすい、無情な世間を感じます。

トーマス・パーが、ロンドン行きで体調を急激に壊したことは、確かなようです。では、ウィニントン村の家にいた時は、どうだったのでしょうか? いろいろな理解があるように思います。でも、少なくとも寝たきりだったのでは、ロンドンに連れて行こうという気にはなれなかっただろうと、思います。「年取れば、介護してもらうようになるのは当たり前」のような認識が、現代社会では当たり前のようにあります。しかし、生き方次第では、150歳まで介護なしに自立して生きていけるのだ、さらに、社会貢献して(トーマス・パーは、直前まで働いていたのです)いけるのだ、ということは、トーマス・パーから、大いに学べることだと、思うのです。

この博物館では、トーマス・パー(オールド・パー)についての情報を、集まり次第、アップロードすることにしました。まだ建設中で、まとまりが悪いですが、ご勘弁ください。

ウィリアム・ハーベイが、パーを検死

ウィキペディアによりますと、「血液循環を発見したことで知られる内科医のウィリアム・ハーベイが、パーの検死を行った。その結果は、ジョン・ペッツの著書『De ortu et natura sanguinis』の中の付記に触れられている。」とのことです。

生まれ故郷イングランド南部フォークストンに建てられたハーベイの銅像(右手は心臓に当て、左手には摘出した心臓を抱えていると言われる)

その検死結果は、

https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A27552.0001.001/1:5?rgn=div1;view=fulltext にありました。ラテン語です。これをGoogleで翻訳したものを、(読みにくいですが、無いよりはましで、何となく分かります) ウィリアム・ハーベイによるパーの検死結果 に置きました。ご覧ください。

ウィリアム・ハーベイがトーマス・パーの遺体を解剖(頭髪は無かったのか)

そこには

(不要かと思われる部分は・・・で、省略しました)

顔に打撲傷があり、死の直前に起座呼吸を伴う呼吸困難が見られました。したがって、死後も脇の下と胸に熱が長く続いたのです。死体のこの兆候や他の兆候は、窒息死した人々に追随しない兆候よりも多く現れました。私たちは彼自身が呼吸の無力さで窒息死したと判断しました。

腸は非常に良く、肉質で、丈夫で、胃も同様でした。小さな指輪のようないくつかの切開を伴う小さな内臓でさえ、筋肉質に見えた。・・・ 壊れたチーズ、すべての乳製品、ふすまパン、したがって硬くて薄い飲み物に満足しており、多くの場合、酸っぱいホエーに含まれています。このように、貧しい人々の家に控えめにそして厳しく住んで、彼は心配することなく自分自身により長い人生を送りました。

最後に、すべてのインテリア(内臓?)がとても素晴らしく見えたので、彼が以前の生活の習慣に従って何も変更していなかったならば、彼は彼の死をもう少し延期したでしょう。

彼は以前から、最も単純な種類の紹介されたもので、存続していたと付け加えられました。彼は、大きくて豪華で多様な生き方と慈悲深いドラフトに徐々に認められた後、ほとんど腐敗しました。・・・ 胃が鈍くなり、胃が長時間排泄されると、調理作業が怠惰に進み、肝臓が圧迫され、静脈内の血液が鈍くなり、精霊が凍ります。より密集して、それが追い出されたり、発汗したりすることができなかった

彼(翻訳には彼女、とありますが何かの誤りでしょう)の脳は無傷で、最もしっかりしていて、触ると最もしっかりしていました。

 ウィリアム・ハーベイによるパーの検死結果 より

この検死結果を、パーが152歳ではなかったことの理由にする論説もあります。ですが、むしろ、152歳でも、体は(今風では体年齢が)大変若くて、健康的だったということを示しているものだと、考えるべきだと思います。

糸左近によるトーマス・パー伝

明治40年に、糸左近 著「何うすれば長命出来るか」が出版されています。その中に、トーマス・パーの伝記があります。

国会図書館デジタルアーカイブからテキストに変換しました。テキストは、糸左近によるトーマス・パー伝 に置きました。ぜひ、ご一読ください。

この伝記は、他になく、非常に詳しいもので、それだけむしろ、一見、眉唾もの?と思わせるものです。

しかし、今から100年以上前のことですが、西洋事情について、大変旺盛に摂取していた時期であり、西洋と日本の人の出入りも多く、意外としっかりした情報に基づいていたかも知れません。

ウィキペディアの日本語版、英語版の情報量に比べて、驚くほどの情報量です。しかも、ウィキペディアの記述と矛盾を感じさせません。結構読ませます。一読の価値ある、大変重要な資料だと思います。元の資料について、何も書かれていないのが残念です。が、多分、後出の『IOHN TAYLORによって書かれた「The Olde, Old, Very Olde Man」』が、種本ではないかと、思っています。この種本を読みこなせないのは、まことに情けない思いです。

以下、一部を紹介します。

トーマス・パーは西暦千四百八十三年に英國のシュリュースベリー Shrews bary. の西十三マイルなる一寒村の賤の伏屋で呱呱 ( ここ )の声を挙げ、西暦千六百三十五年に、百五十二歳を以って『嗚呼我は若死せり』と、嘆息しつつ永眠した人である。

彼は自ら悟って曰く『恐れ多き言葉なれど、父母は衛生の道に適わぬ節の多か ったために、斯くも短命せられたのだ。其の代り我は二百歳以上の寿命を保ち、世の模範になって見よう。就いては第一に衛生の道を盡さねばならね。衛生の道は畢竟善く働いて、善く食ひ、善く眠るの三事に籠っている。』と。

是より彼は太陽の地平線上に昇るを度として起き出で、照りはたく三伏の日も、雨風烈しき冬の日も、渺々たる原野に出でて、田を耕し畑を培ひ勉むべき時間は一刻も休まぬ。三度の食事は彼自ら調理し、極めて簡単質素なる食品を取り、決して贅沢なる滋味を貪らぬ。

日暮れて眺餐を終れば、間も無く寝床に入り、少くとも八時間、長きは十時間も鼾声を響かせている。

『然らば何が此世で最も樂しきか』と 問へば、『睡眠である。善く働いて草臥れた後に寝床に入る楽しさは、何とも斯とも言葉には盡されませぬ』と言ふ。『失敬ながら君は滋賽の食物が足らぬでは無いか』と詰れば『否々如何に滋養の食品とても、働かずして食へば徒らに糞便となるのみだ。働いて食へば、斯の如き質素な食物でも、能く同化吸收して、身體の営養を助くるものである。凡ての人も余の様を手本にしなさい』と反駁する。

時は千五百八十年即ち彼が百五歳の時に、教會の壇にスックと 立ち、『余は何を包み隠しませう、余は実に大罪を犯しました。余は情慾の奴隷となって、妻有る身にも拘らず、人の誹りも顧みず、神の咎も恐れず、人目を忍んで不義を致したること、何とも申訳が御座いませぬ。オオ大慈大悲の神よ願はくは既往の大罪を許 し玉へ』言葉の終るか終らぬ中に天を仰いでさん然と泣いた。実に尊き涙である。

此の尊き涙を流して以来は、正々何折路傍柳、堪愛中庭一樹梅(正々何ぞ折らんや路傍の柳、堪えたり愛するに中庭一樹の梅)、と旧に倍して正妻を愛し、尚運動を怠らず、専ら摂生に注意していたが、不幸なる哉、妻はパーが百十二歳の時に先立った。

斯くの如く百二十二歳で、後妻を娶る位な元氣であったから、百三十歳の頃は普通の若人と競争して、穀物を打ったる位である。

千六百三十五年即ち彼が百五十二歳の時、アランデル卿が世にも尊き此の長寿者あるを聞き、特別なる乗物を作らせ、自ら其村に到リ、・・・ バーは嬉し涙を流し、『あな尊や、あな畏や、瓦礫と同じく唯長命したるのみで、何等の活動したる事も無き、此の草莽の臣バーを・・・・・・』後は無言の儘。忝なき乗物に打乗り、夢にも見られぬ尊き宮殿へ上るの光栄を得たのである。

侍従に導かれてチャーレス王陛下の御前に躓けば、陛下『汝は世にも珍しき長寿者ぞや、定めし人に優れたる攝生も守ったであらう。其の守った次第を朕が為に包まず語れよ』パー「さん候、卑しき身、別に之と申し上ぐべき長寿法も知り侍らず候へども、唯善く働いて善く食し善く眠って百五歳まで暮し候。然るに当時計らずも不義の魔道に陥り心中頗る煩悶致し候ひしが翻然とと前非を悔い神の御前に懺悔を致しまして以来尚一層心身が強健になりましたやうで御座いまする。若し此時に懺悔を致しませんで居りましたならば、必ずこの長寿は得られませんで御座いませうと存じまする。外に申し上る事は御座いませぬ』

彼は、今日は山海の珍味に厭き明日は葡萄の美酒に酔ひ斯くして十数日を送る中に斬次消化不良を来し、名医の診療も受けたが、遂に病は回復せず、千六百三十五年十一月十四日に『嗚呼我は都に上って以来、運動を廃し滋味を貪った為に若死するの不運に至った。思ふ年まで生きることの出來ぬは如何にも残念だ』 と最後の微笑を洩さないで終った。

死後ドクトル、ハービー氏は請うて解剖したるに尚立派なる身体の組織がある。氏大いに歎じて曰く『畢竟するに贅沢な倫敦生活が哀れ彼の死を早めたのだ」』と。是に於てアランデル其他の紳士は相計って、ウェストミンスター寺の墓に葬る。ウェストミンター寺は名士に非ずんば葬らぬ所。然ればトーマス・パーも亦以て瞑目せねばならぬ。

糸左近によるトーマス・パー伝

ウィニントン村のトーマス・パーの家

新聞記事 Home of oldest man ever rose again from ashes より。一番下に、焼失したと書かれています。焼失前の写真ですね。

イギリス、シュロップシャー州のウィニントン村で暮らし、今も住居が(焼失して再建、保存されているそうです)あって、イングランドとウェールズの国境近くみたいです。今も、田園地帯のようです。1959年に焼失して、再建されたそうですが、それまで500年間続いていた、というのは、日本的には、信じられないほどのことですね。今は、別荘として使われているそうです。(Shropshire Star より)

シュロップシャー州アルバーベリー近郊のオールドパーズコテージ The Book of Days(WR Chambers、c 1870)のイラスト

Shrewsbury Museum & Art Gallery より

Shrewsbury Museum & Art Gallery より

狭いながらも楽しい我が家、ですね。家畜小屋が見当たりませんね。見えない所にあるのでしょうか。

日本なら「オールド・パー資料館」になっているに違いありません。多分、この違いは、オールド・パーの年齢について、イギリスでは否定的に受けとめられていることとも、関係があるのでは? と考えます。そうなら、残念です。

ウィニントン村からロンドンへ

トーマス・パーの家のあったウィニントン村。シュロップシャーの州庁所在地シュルーズベリーの近くです。

シュロップシャー (Shropshire) は、イングランド、ウェスト・ミッドランズの典礼カウンティかつ単一自治体 (Unitary Authority)。サロップ (Salop)とも呼ばれる[1]。州庁所在地はシュルーズベリー。ウェールズに接する。大麦、小麦といった穀物や、テンサイ、ジャガイモの生産がおこなわれている。ブルーチーズの一種シュロップシャー・ブルーの産地でもある。

ウィキペディア より
Googleマップより、シュロップシャーの州都シュルーズベリーの近くみたいです

ウィニントン村の衛星画像。

Googleマップより、田園地帯ですね

ウィニントン村からロンドンへ。

Googleマップより

ウィニントン村からロンドンまでは182マイル(約293km)。馬車で行ったということです。自転車並みの速度として、朝出発したとして、翌日には、到着したかも知れません。(2~3週間をかけた、という説もあります) でも、いろいろ大騒ぎがあったようですから、もっとかかったかも知れません。昔の道を馬車ですから、これだけでも、年寄りには結構応えますね。

年表から

1455~85  バラ戦争

1467-77  応仁の乱

1483(1482とも) トーマス・パー誕生

1492    コロンブス大西洋をインドめざして出航

1568    織田信長、入京

1588    イングランド、イスパニア無敵艦隊を破る

1600    東インド会社設立

1600    関ヶ原合戦

1605    ガイ・フォークス国会議事堂爆破未遂事件(若い男を guy と呼ぶのはこれから来ているらしい。トーマス・パーとは、ほとんど関係ない話。すみません。)

1618-1648 30年戦争(神聖ローマ帝国を舞台にしたカトリック系とプロテスタント系の国際戦争)

1620    メイフラワー号上陸

1628    権利請願

1635    トーマス・パー死去

1635    江戸幕府「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。

1642    ピューリタン革命

トーマス・パーの生涯は、牧羊のために第1次エンクロージャー(土地囲い込み)が、行われていた時代とも重なります。

トーマス・パーが頭寒足熱と関係ある、という説も

当研究所別館の記事ですが。

トーマス・パーが、長生きの秘訣を聞かれた時の答え

Keep your head cool by temperance and your feet warm by exercise.

から、「頭寒足熱」が来ているという説が通説らしいのです。この Keep your head cool by temperance というのは、王との謁見の際にも、不倫を悔いて、懺悔し、悔い改めたことを、長生きの理由として挙げているます。これは、ウィキペディアにも登場します。そのことの別な表現とも言えます。

私自身、この年で、何かにつけて、昔のことを、いろいろ悔いて、懺悔します。浮ついた気持ちが吹き飛んで、体が、ぐっと絞られるような感覚です。でも、これが、良いストレスとなって、心と身体の引き締めにも役立っているような、そんな感覚も確かにあります。 Keep your head cool というのは、こういうことを言うのかも知れません。懺悔は、長生きの元、ということになるかも知れませんね。

まとめ記事もあります

おにぎりまとめ 「嘘みたいな長寿がここに…152歳まで生きたトーマス・パーの逸話がすごすぎる!!」 いろいろ逸話が集めてあります。

ウィキペディアのトーマス・パー

日本語版

英語版

英語版ウィキペディアの記事につきまして、主に私にとって読みやすいように、翻訳し、別記事にしました。英語版ウィキペディア トーマス・パー 翻訳 に置いています。

それぞれ、実際に読んでもらえると、良いのですが、ただ2点だけ、受け入れ難いところがあります。

この検視報告書はパーの実年齢が70歳未満だったことを示唆しているという。

パーに関する伝承は、彼の祖父のそれとの混同が指摘される。事実パー自身も15世紀のことに関しては特に覚えている出来事はないと述べている。

日本語版ウィキペディアより

検視報告書とパーの実年齢の問題ですが、「検視報告書は70歳未満だったことを示唆していると」、としていますが、検視報告書は、内臓が極めて健全だった、といっているだけです。ましてや、150歳くらいの人の解剖は彼らにとっても、始めてのことですから、他の検体と比較して、年齢をあれこれ言える根拠は持ち合わせていないわけです。

パーに関する伝承で、「彼の祖父のそれとの混同が指摘される。事実パー自身も15世紀のことに関しては特に覚えている出来事はないと述べている。」、としています。しかし、1483年生まれのパーが、その初期16年間の出来事について特に記憶がない、としても特別、変なことではない、と思います。今のように、マスコミがあるわけでもなし、政治的な事件が、子供の記憶に残ることは、なかなか無かった、とも考えられるのではないでしょうか。

ところで、重要だと思うのは、トーマス・パーと国王のやり取りです。

チャールズ1世は、パーに、「マスター・パー、あなたは他の男性よりも長生きしています。その理由は何ですか?」と尋ねたと報告されています。彼は、村の乙女であるキャサリン・ミルトンとの件で懺悔をした、と答えました。国王は、「何と! 老人よ、お前は悪徳しか覚えていないのか?」と、怒りました。

英語版ウィキペディア トーマス・パー 翻訳 より

このやり取りは、一般的にはトーマス・パーを嘲笑する材料のような解釈をされています。しかし、多分、国王の勘違いで、話がかみあっていないのだと、思います。

懺悔して、心を入れ換えて生きるようになったことが、長寿を招いたとパーは言おうとしている、と私は思います。日々、「これでいいのか?」と、反省して生きることは、安逸や欲望に流れることを防ぎます。多分、このことは想像以上に、長寿と関係するように、感じます。

誤解されることを承知で書きます。例えば、自動車の運転を続ければ、事故を起こしてしまう可能性が高いような体調だとします。その時、楽だからと、乗り続けるのか。それとも、あっさり降りて、楽など求めず、体操、運動、ストレッチ、仕事、家事、ボランティア、趣味などなどで、一日中動き続け、働き続けるのか。
一年もすれば、(事故のことを含めて)とんでもない違いとなって現れると、思います。薬を、楽にもらいに行くために自動車に乗り続けるのか、それとも、自動車を降りてどんどん動き、薬がいらないような体を作るのか。

パーは、心理的なことを含めて、自動車を降りて、体を動かせ、と言っているのです。

このことは、私自身の懺悔、自戒でもあります。

トーマス・パーの画像がいろいろあります。

トーマス・パーの画像です。

Thomas Parr at Wikimedia Commons

トーマス・パー ギャラリー

 

次のリンクでは、ウィニントン村からロンドンへの話が、絵になっています。

The old, old, very old man: or, the age and long life of Thomas Parr‎ 

 

トーマス・パーのお皿というのもあります。

Plate

 

ウエストミンスター寺院の記事です。

Thomas Parr

見ているだけでも、楽しいですね。

JOHN TAYLORによって書かれた「The Olde, Old, Very Olde Man」

トーマス・パーについて書かれた最初の伝記(詩)として、有名なものです。しかも、1635年という、トーマス・パーが死んだ、その年に、そのロンドンで出版されたものです。極めて資料価値の高いものです。すべての情報の出所がここかも知れません。

The olde, old, very olde man: or the age and long life of Thomas Par the sonne of John Parr of Winnington in the parish of Alberbury; in the country of Salopp, (or Shropshire) who was borne in the raigne of King Edward the 4th. and is now living in the Strand, being aged 152. yeares and odd monethes. His manner of life and conversation in so long a pilgrimage; his marriages, and his bringing up to London about the end of September last. 1635. Written by Iohn Taylor.
Taylor, John, 1580-1653.

https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A13482.0001.001?rgn=main;view=fulltext

ですが、その古文体、しかもいちいち韻を踏んでいる韻文に、Google翻訳はほとんど役に立ちません。上記のリンクにフルテキストがあります。どなたか、英語に堪能な方が、訳してくださったらなあ、と思うだけで我慢しておきます。(実は、私なりの翻訳に挑戦していますが、なかなか、はかどりません)

作者 John Taylor です。トーマス・パーの詩以外に、いくつか詩が残っているようです。この人の活躍あればこそ、トーマス・パーのことが後世に伝わったのですね。ありがとうございます。

John Taylor(PoetryNook.Com より)

次のようなものも、同じ1635年出版であるとされています。上の本ではoldeに、下の本ではoldになっていて、絵だけでなく、テキストでも違いがあるようです。下の本の方が少しとっつきやすい気はします。

この本(下の画像)は、ジョン・テイラーの作品集となっています。また、Postscript(あとがき)として、追加の記事が載っています。ですから、オリジナルは上の画像のもので、「olde」となっているのも、そのためでしょう。この作品集が、実際にいつ出版されたのかは、分かりません。(印刷された出版年は同じ1635年と書かれています)

internet archive より

でも、この新しい本は、上記のリンク先に、本の全画像と、フルテキストがあります。こちらを底本として、翻訳に挑戦中です。

フルテキスト(多分OCRによるテキスト)を、画像で校正したものを、「The Old, Old, very Old Man or Thomas Par (トーマス・パーの伝記)英語原文」に置いておきました。ご利用ください。(現在翻訳に挑戦中です)

このジョン・テイラーについては、英語Wikipediaに記事があります。(こちらは現代文なので、Google翻訳で何となく分かります) テムズ川の渡し船の仕事をしながら「水の詩人」と名乗った人らしいです。当時かなりの人気で、予め本を買ってくれる人を募って、そこそこの人数に達したら出版した、ということです。上の本も、そうして印刷されたものなのでしょうね。そうした方法から、現在のクラウドファンディングの祖先じゃないか、という見方もあるそうです。意外な展開ですね。話が広がると、面白くなりますね。

「オールド・パー爺さんとその時代 ― 近世イングランドの長寿者の物語」

山本信郎さんという方が書かれた論文があります。トーマス・パーを宗教問題とからめながらの論考です。なかなか興味深いです。

http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no190/19007.pdf にあります。

同じ頃、169歳まで生きた、ヘンリー・ジェンキンス(Henry Jenkins)

トーマス・パー(1483年~1635年)に重なる時代ですが、1501年から1670年まで生きた(169歳)ヘンリー・ジェンキンスという、伝説的な人物もいたようです。イギリス、ノースヨークシャーの、スウェールのエラートン(Ellerton-on-Swale)で生まれ、他の土地で暮らし、故郷で死んだようです。

ウィキペディア英語版の Henry Jenkins (longevity claimant) に書かれています。

国王の宗教に合わせて、生涯に8回、宗教を変えたことで有名らしいです。この辺のことは、前項のhttp://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no190/19007.pdf でも触れられています。この頃は、宗教改革や、異端審問などもあり、新教と旧教が勝ったり負けたりの戦争をしていた大変な時代だったのです。

ヘンリー・ジェンキンスについては、静かに死ぬことができたためか、さらに情報は少ないです。でも、トーマス・パーも、ロンドンへ行って死ぬようなことが無ければ、ヘンリー・ジェンキンスのように、静かに生きる(死ぬ)ことができたかも知れませんね。

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